原点メモ

自分が抱えているトラウマの原体験。

記憶を遡り、出来る限りの最初を思い出してみよう。

『閉所恐怖症』

恐らくはもっと前の体験があるはずだが、最初に恐怖を感じたのは父方の祖父母と父親と妹と達との家族旅行でのこと。

旅館の部屋で父親と妹と遊んでいた時に、単なるじゃれあいだったとは思うが…。

いわゆる“布団蒸し”を父親と妹にされて、とてつもなく恐怖を感じ、動けない、暗い、息苦しい、これを体験したことだろう。

これに対して恐怖から抵抗をした時に、確かたまたま父親の腕だったか?必死で噛み付いて難を逃れたのである。

そしてその後被害者であるオレ自身は父親に説教というか注意されたのである。言うなれば加害者からの追い討ちである。

それが決定的になってしまったのであろう。

バス、電車など満員電車でなくとも息苦しさを感じるようになり、さらには外が怖くなり遠足や修学旅行、通勤電車の中では不安いっぱいでパニックになることもしばしば起こり始めていた。

家族なのに自分にとっての絶対領域、つまりはATフィールドが確立されてしまった。

知らない場所での宿泊は怖く、とても落ち着かない。通勤電車の中で動けなくなるとパニックになり気を失いかけることもしばしばあった。

守られるべき対象から守られないことの怖さ。幼少期の体験は中々治せないものなのだと思う。

 

広場恐怖症

小学校に上がる直前に、妹の幼稚園の運動会にて、幼稚園の児童でもない自分に、観覧に連れて来られていただけで、幼稚園の先生が自分に悪意なき善意で徒競走に幼稚園児と一緒に無理矢理参加された。とても嫌で動けなかった自分に、“頑張ろうね”とか声をかけられ幼稚園の先生に付き添われて恥ずかしい体験してしまった。

そしてゴール後に理不尽にも祖父母に何故ちゃんとしないんだと怒られたのである。

 

もっともこれらに共通するのは保護者である身内が、自分のことを妹と同列の扱いをしていないということもある。

 

似たような体験をした人の中には、乗り越えられる人もいるとは思う。

だが、自分は未だに乗り越えられないのだ。

そして、ほぼ確信しているのは、常に保護者から肯定されたことがないからなのだろうと感じている。

 

現在までに自分が得たのは、人前に出る怖さとパニック、そして対面するときのペルソナである。

 

仮面を被ることで、ある程度の事なきを得られることを小学生になる前に覚えたからだろう。

 

そしてこの仮面は自分自身を壊している要因の一つとも意識している。

親の愛情を知らない人生

いつのことかはわからないが物心ついた頃に両親は離婚していた。

親権は父親側にあったそうだが、幼い妹とオレは父親の実家に預けられることになり、最後の夜に母親はオレと過ごしたいということで、一晩だけの約束で近隣のホテルで過ごす予定だったそうだ。

だが、母親はオレを当時の住まいにそのまま連れ帰り数年を母方の祖父と母親との3人で暮らしていた。

子供心に母親と苗字が違うことは分かっていたが、それが何を意味するかまでは理解してはいなかった。

 

小学生に上がる1年くらい前だと思う。

父親から『北海道にいる妹に会いたくないか?』と言われ、何もわからないオレは単純に会いたいと答え、しばらくして父方の実家に連れていかれた。

再会した妹、記憶にない祖父母。恐らく盆休み休みだったのだろう。寒くなかったのは覚えている。

数日が過ぎ、父親が東京に帰ると聞き、オレも母親に会いたいから帰ると言ったが、それに対する父親からの返答は『お前はここに残るんだ』

絶望した。即座に泣き出した。無意味なことだったが。

 

母親に二度と会えない悲壮感で毎日泣いて暮らした。寝室に祖父母に挟まれ眠る妹。それにひきかえオレは祖母の隣、部屋の隅で妹の為に買ったのであろうオルガンとの間に挟まれ、狭っ苦しい思いがより一層自身を追い詰めていたのだと思う。

夜な夜な目を覚ましては涙を流していたが、それが癇に障ったのだろう。祖母からよく叩かれていた。朝起きたら、ある時は鼻血、ある時は頬に引っ掻き傷。そんなことがしばしばあった。

祖父母に毎日のように怒られ、妹と同じ両親から生まれたはずなのに祖母からは『あの女の子供』というレッテルを貼られ、日々を泣く泣く過ごした。

そのうち悟ったのは泣くのを我慢することと、顔色を伺うこと。叩かれ、殴られながら過ごすのは辛かったから。

 

妹に会いに行くだけという言葉で騙され、お前はこれからここで暮らすんだと祖父母の元に押し付けられ、理由も教えてもらず強制的に母親と別れさせられた、愚かな子供はその頃からどこか歯車が狂い出していたのだろう。

 

それから小学2年の冬休みになるまで、とにかく祖父母の顔色を見ながら過ごしていた。

 

休みに入った頃だっただろうか?

父親が母親と祖父母の元に来ると聞き、目の前が薔薇色に見えたことを覚えている。

時期的に考えて年末年始の休みだったのだと思う。

父親と母親が来る日、今か今かと待っていたオレは心踊らずにはいられなかった。

妹も母親に会える事を喜んでいたことは覚えている。その時にどんな話をしたのかは記憶にないが、少なくとも妹に対しぞんざいな扱いはしていなかったはず。

そうしているうちに玄関から祖父母達の声が聞こえて来た。

何となく気恥ずかしくもあり、玄関に向かったオレは、部屋のドアからおずおずと顔を出し、何を話そうかと考えながら父親達の方を見て、顔が凍りついたことは忘れられない。

何故ならそこに居たのは『母親』と呼ばれる知らない女性だったからだ。

母親を記憶にない妹は手放しで喜び、祖父母は歓迎し、談笑している父親達。

 

そうしてようやく理解した。

東京を離れる時、空港に向かう車の中から後方を振り返って時に、追いすがる母親が泣き崩れていたこと。

その時にそれが何を意味するのか全く理解していなかった自身が今も悔やまれてならない。

 

欧米などでは離婚の際、子供にも話す事は割とスタンダードであると良く本などの記事やドラマで見かける。

大人と呼ばれる分類に入る今でこそ、離婚の意味や至る経緯などは理解出来る。

だからといってそれをオレ自身にして欲しかったわけでもないと思う。

だが、少なくとも再婚するならば、改めて事情を知っているオレには事前に話すことが最低ラインのマナーだったのではないか?と今でも考えている。

母親から騙して引き離され、新しい母親を押し付けて来た父親に、信頼など持てないのは当たり前だ。

 

そして春からは父親と知らない母親と呼ばれる人たちと一緒に関東で暮らすため引っ越すこと知らされた。

少なくとも、祖父母の元にいるよりはマシだったと思っていたのだと思う。

北海道が嫌いなわけではない。それなりに友だち付き合いもあったから。それなりの友だちとの別れを済ませ、タラップを昇り、新しく押し付けられた『母親』と新しく出来た『妹』との

生活が始まる、家へと向かうことになった。

 

そこで待っている愛情に振り回される日々と、新しく出来た『友だち』という仮面を被った小悪党に出会うことも知らずに…。

 

ハードボイルド

自分は単純な人間だ。

カッコいいものには惹かれるし、ハスに構えて右へ倣えをしても、琴線にふれるものであれば時間が経つとともに、それを『みる』

 

小説の話である。

SFであれば

梶尾真治先生”

田中芳樹先生”

笹本祐一先生”

この御三方は外せない。

 

そしてタイトルにあるハードボイルド。

そこに定義される作品は数多あり、齧ったこともない人でも聞いたことのある作品も多い。

 

だが自分の印象に残り、今なおそのような生き方が出来るならと憧憬を抱かずにはいられない作品がある。

大沢在昌先生”の『佐久間公シリーズ』だ。

氏の作品でも名が通っている作品と言えば『新宿鮫シリーズ』や『アルバイト探偵シリーズ』だろうか?

もちろん氏の作品は全て読んできた。

だが、自身の心に残り今なお背中を見つめているのは『佐久間公シリーズ』の主人公“佐久間公”である。

身近に感じながらも遠いその存在に、男として尊敬の念と共に憧憬を抱いてしまうのは、

スーパーマンでもなければ銃の名手でもない。

ストリートファイトに強いわけでもなければ、華麗なるドライビングテクニックを持つわけでもない。

『心がタフ』なのだ。

ケガを負わされボロボロになっても初志貫徹するのだ。

ただそれだけの男なのだ。洒落たバーにも行けば、ビリヤードを打ち切るくらいの腕も持つ、ちょっとカッコいいだけの、姿形だけを表すならば恐らく、今の時代には類型的な男も多いことだろう。

それでも自分の心が惹かれ続けているのは、やはり彼のその生き方だ。

 

『探偵は職業じゃない。生き方だ』

 

シリーズの中でこの台詞が出て来た時に、自分の中で自覚したのを覚えている。

彼のように生きたいわけでもなければ、彼のようになりたいわけでもない。

ただ、1人の人間として、そうありたいと思えるのだ。

 

あと何十年生きられるのかは分からない。

だがもしも彼、“佐久間公”と知り合いなのならば、最後の瞬間に彼に恥じない生き方を少しでもしたと伝えたいと思っている。