親の愛情を知らない人生

いつのことかはわからないが物心ついた頃に両親は離婚していた。

親権は父親側にあったそうだが、幼い妹とオレは父親の実家に預けられることになり、最後の夜に母親はオレと過ごしたいということで、一晩だけの約束で近隣のホテルで過ごす予定だったそうだ。

だが、母親はオレを当時の住まいにそのまま連れ帰り数年を母方の祖父と母親との3人で暮らしていた。

子供心に母親と苗字が違うことは分かっていたが、それが何を意味するかまでは理解してはいなかった。

 

小学生に上がる1年くらい前だと思う。

父親から『北海道にいる妹に会いたくないか?』と言われ、何もわからないオレは単純に会いたいと答え、しばらくして父方の実家に連れていかれた。

再会した妹、記憶にない祖父母。恐らく盆休み休みだったのだろう。寒くなかったのは覚えている。

数日が過ぎ、父親が東京に帰ると聞き、オレも母親に会いたいから帰ると言ったが、それに対する父親からの返答は『お前はここに残るんだ』

絶望した。即座に泣き出した。無意味なことだったが。

 

母親に二度と会えない悲壮感で毎日泣いて暮らした。寝室に祖父母に挟まれ眠る妹。それにひきかえオレは祖母の隣、部屋の隅で妹の為に買ったのであろうオルガンとの間に挟まれ、狭っ苦しい思いがより一層自身を追い詰めていたのだと思う。

夜な夜な目を覚ましては涙を流していたが、それが癇に障ったのだろう。祖母からよく叩かれていた。朝起きたら、ある時は鼻血、ある時は頬に引っ掻き傷。そんなことがしばしばあった。

祖父母に毎日のように怒られ、妹と同じ両親から生まれたはずなのに祖母からは『あの女の子供』というレッテルを貼られ、日々を泣く泣く過ごした。

そのうち悟ったのは泣くのを我慢することと、顔色を伺うこと。叩かれ、殴られながら過ごすのは辛かったから。

 

妹に会いに行くだけという言葉で騙され、お前はこれからここで暮らすんだと祖父母の元に押し付けられ、理由も教えてもらず強制的に母親と別れさせられた、愚かな子供はその頃からどこか歯車が狂い出していたのだろう。

 

それから小学2年の冬休みになるまで、とにかく祖父母の顔色を見ながら過ごしていた。

 

休みに入った頃だっただろうか?

父親が母親と祖父母の元に来ると聞き、目の前が薔薇色に見えたことを覚えている。

時期的に考えて年末年始の休みだったのだと思う。

父親と母親が来る日、今か今かと待っていたオレは心踊らずにはいられなかった。

妹も母親に会える事を喜んでいたことは覚えている。その時にどんな話をしたのかは記憶にないが、少なくとも妹に対しぞんざいな扱いはしていなかったはず。

そうしているうちに玄関から祖父母達の声が聞こえて来た。

何となく気恥ずかしくもあり、玄関に向かったオレは、部屋のドアからおずおずと顔を出し、何を話そうかと考えながら父親達の方を見て、顔が凍りついたことは忘れられない。

何故ならそこに居たのは『母親』と呼ばれる知らない女性だったからだ。

母親を記憶にない妹は手放しで喜び、祖父母は歓迎し、談笑している父親達。

 

そうしてようやく理解した。

東京を離れる時、空港に向かう車の中から後方を振り返って時に、追いすがる母親が泣き崩れていたこと。

その時にそれが何を意味するのか全く理解していなかった自身が今も悔やまれてならない。

 

欧米などでは離婚の際、子供にも話す事は割とスタンダードであると良く本などの記事やドラマで見かける。

大人と呼ばれる分類に入る今でこそ、離婚の意味や至る経緯などは理解出来る。

だからといってそれをオレ自身にして欲しかったわけでもないと思う。

だが、少なくとも再婚するならば、改めて事情を知っているオレには事前に話すことが最低ラインのマナーだったのではないか?と今でも考えている。

母親から騙して引き離され、新しい母親を押し付けて来た父親に、信頼など持てないのは当たり前だ。

 

そして春からは父親と知らない母親と呼ばれる人たちと一緒に関東で暮らすため引っ越すこと知らされた。

少なくとも、祖父母の元にいるよりはマシだったと思っていたのだと思う。

北海道が嫌いなわけではない。それなりに友だち付き合いもあったから。それなりの友だちとの別れを済ませ、タラップを昇り、新しく押し付けられた『母親』と新しく出来た『妹』との

生活が始まる、家へと向かうことになった。

 

そこで待っている愛情に振り回される日々と、新しく出来た『友だち』という仮面を被った小悪党に出会うことも知らずに…。